殺害と暗殺のあいだ

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オサマ・ビン・ラディンが死んだのは 2011年5月2日のことだった。1年以上前になるが、ずっと気になったのが「オサマ・ビン・ラディン殺害」と報道されていたことだ。今年になっても、「オサマ・ビン・ラディン殺害から1年」などと報道されている。なぜ「オサマ・ビン・ラディン暗殺」ではないのか。

もしかして暗殺の定義から外れているのだろうか。新明解国語辞典によると、「〘おもに政治上・思想上の対立から〙(無防備の)反対派の人を、すきを狙って殺すこと」となる。政治・思想上の対立が本件の原因であるから、動機については暗殺に該当する。カッコ付きの「無防備」については、武装した「側近」がいて応戦しているので無防備とはいえないだろうが、ケネディも井伊直弼も警護者が武装していても「暗殺」」扱いとなっているから、該当すると考えてもよいだろう。ビン・ラディンはまさしくアメリカに対する「反対派の人」であった。ケネディや井伊直弼はパレードや通勤中など、たしかに「すき」が生じたときを狙われてはいる。しかし、このようなあからさまな「すき」を狙うことが暗殺の要件なのだろうか。「すき」を狙うのは、暗殺者側の武装が貧弱であればそれを補い、その被害を最小にとどめ、かつ確実に殺害を成功させるためだろう。ビン・ラディンに対しても、利用できる「すき」があれば利用したに違いない。

こうしてみると、やはり「暗殺」の要件は満たしているように思える。ただし、事件直後で状況がよくわからない時点では、「殺害」と暫定的に表現することは理解できる。逮捕を目的として抵抗を排除しているうちに死なせてしまった過失致死なのか (最初から殺害する計画だったそうだ)、ビンラディン側も拮抗する武力で戦闘になったあげく戦死したのか (米軍の圧倒的優勢)、ごく初期には情報が錯綜するだろう。しかし、1年を経て状況が明らかになってみればやはり「暗殺」以外の何物でもない。

なぜ、日本のマスコミはこれを暗殺として報道しないのか。同盟国が「暗殺」を平然と実行する野蛮な国ではいろいろと不都合な政府の意向をそのまま丸飲みにしているだけ、だったりしたら情けない。ほかに理由があるのだろうか。

なお、カダフィ大佐については私刑による処刑で亡くなったようなので、「殺害」は適切な表現であろう。


作成: 2012-05-15 12:36:38.0更新: 2012-05-15 12:36:38.0
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