天の夕顔、もへじ新刊

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ライブプログラミングを終えてから睡眠周期が不調である。その日はくたくたに疲れてビールをドバッと飲んでバタンと倒れて眠る、と順調であったのだが、なぜか日曜の 2:30 ごろに目覚めてしまい、しかも再び眠ることができず、6:30 からは町内会の除草があったのでようやく眠気を感じた 5:00 ごろをやり過ごして起き続けた。その後二度寝を試みたのだが、うつらうつらはするのだが有効な睡眠とはならず、午後開きなおって妻の求めにしたがってドライブに向かった。

向かったのは飛騨市方面で、目的地は観光牧場である。ところがこれがどうやら富山県境方面に向かっている。どうやら有峰湖に向かう途中の道らしい。ということは「天の夕顔」文学碑なんかがある山之村だ。

「天の夕顔」を読んだのは、小説をもっとも読まなくなった高校時代だ。中学時代は文学少年であったのだが、なんとなく文学青年にだけはなりたい、と考えてしまったためか小説を読まなかった。にもかかわらず「天の夕顔」を手に取ったのは国鉄(当時)武蔵野線の有閑ダイヤのおかげである。高校時代は1年のときはバス、2年で電車、3年になって自転車と毎年通学手段を替えていた。当時の武蔵野線は夕方のラッシュ時でも一時間に一本という油断ならぬダイヤで、土曜日の半ドンの帰宅となると中央線西国分寺駅での乗り継ぎに二時間かかることもあったのである。

たしかそんな土曜日の昼下がりだった。駅の改札を出たところに小さな本屋があって(いまでもやっているのだろうか。西国分寺駅周辺も様変わりしたようだ)、待ち合いが長いとそこで立ち読みをするのが常だったのだが、その日は立ち読みばかりをしたことを殊勝にも反省したのか、なんらかの理由で立ち読みする気力がなかったのか、小説でも買って読んでやろうと考えたのである。新潮文庫の「天の夕顔」はその書店の本棚でもその薄さが異彩を放っていた。予算及び待ち合い時間を考慮して、「薄い」という理由だけでその本を手に取ったのであった。

一般的には、この作品を読んだ後は「これこそ純愛だ。なんという純粋な人生なのだ。」という感想を抱くことになっているだが、私の感想は「主人公は(作中での断り通り)なんと不毛な人生を送ったことだろう。こんな人生だけは送りたくない。」「性欲の処理はどうしたのだろう。ものすごく淡泊なひとなのだろうか。」という身もふたもないものだった。すくなくとも作者・中河与一の他の作品に関心がもてなかった。このあたりの感想はいま読んでもかわらないような気がする。

さて、ドライブから帰ってしばらくしたら睡魔に襲われ、ただちに眠ってしまったのだが、今度はどうしたものか12時ごろ起きてしまった。再び眠れそうな気もしたのだが、いちおうドラゴンズの勝敗だけでも確認しようとしたところ、F1 ハンガリーグランプリでホンダが優勝したことを知った。それならば録画中継をみるか、と見始めたらまた眠れなくなって徒然にネットを見ていると「もへじ」こと北大路公子の「なにがなにやら」の後編が出版されることがわかった。「最後のおでん」というタイトルだ。

一瞬、魔がさして「最後のおでん」と「天の夕顔」をいっしょにアマゾンで購入しようかとも考えたのだが、「天の夕顔」は図書館で借りればいいや、と思い直した。読み直してみて感想が改まったら買ってもよいが。


作成: 2006-08-07 20:15:33.0更新: 2006-08-07 23:37:32.0
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