三つ子の魂百までも

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時を同じくして生まれた三つ子は、その容姿ばかりではなく、志も同じくするものだ。3人でひとつの目標を生涯かけて追い求めるものなのである。すなわち、(三つ子でなくとも) 血縁のある兄弟・従兄弟などは同じ性向を持つことをあらわす諺。類似した諺に、「血は水よりも濃い」、毛利元就の三本の矢の喩も同様。

…だと永らく思い込んでいた。真実に気づいたのは10年ほど前である。それにしても、30歳をすぎるまでこのような意味だと思い続けていたことになる。変だと思ったのは、「なぜ双子ではなく三つ子なのか」と疑問に思ったことがきっかけで、もしかして三つ子とは双子より一人多い三つ子ではなく、三歳児のことではないか…と気づいたのである。

「三つ子の魂百までも」で思い出すのは、夜の海の恐怖だ。私は夜の海が怖い。正確には、日が暮れて暗くなりかけたころから、海岸にいることになんともすわり心地の悪い、胸騒ぎに襲われるのである。原因ははっきりしている。人喰い大蛸が現れて、海に引きずりこまれてしまうのが怖いからである。

子どものころ、家族で海水浴に行った。子どものこととて、砂浜で遊びまわり、いざ帰ろうとする段になると遊び足りないような気がするものである。そのとき、父と次のような会話を交わした記憶がある。

私: もっと遊んでいたい
父: 夜の海は危ないからだめだ。
私: どうして危ないのか
父: 大蛸が出て海に引きずり込んでしまうからだ。

大蛸の問題に言及したのは私かもしれない。いずれにせよ、ウルトラQの大蛸スダールか東宝怪獣映画のフランケンシュタインまたはキングコング対ゴジラに登場した大蛸の印象がどちらかの頭にあったのであろう。とにかく、この会話によって「夜の海は大蛸が出てくるので危険だ」ということが幼い私にしっかりと刷り込まれてしまったのである。

なにかがおかしい、と気づいたのは大学生になってからだった。友人たちと海水浴に行き、暗くなってきたので帰ろうか、という場面で幼い日の大蛸が突如出現したのである。「暗くなってきたから帰ろう。夜の海は危ないし。」そういう私に友人の一人はまだ大丈夫だろう、と言った。この瞬間、「だって蛸が出てくるし」と危うく口にするところだったのである (口に出さなくて本当によかった)。そのときになって初めて私を捉えている夜の海の恐怖の理不尽な正体を知ったのだ。

いまではもちろん、夜の海から人喰い大蛸が現れないことを知っている。理性はその存在を否定するのだが、夜の海にいると波打ち際の少し沖にそれがいるような気がしてならず、なにか恐ろしいものを感じるのだ。

ところで、この人喰い大蛸のエピソードは「三つ子の魂百までも」の諺の実例になっていると思うのだが、間違いないだろうか。なんか少し違うような気もしないでもない…。


作成: 2003-10-14 13:53:56.0更新: 2003-10-14 13:53:56.0
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