黄昏のパソコン

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どうやら、パソコンというものの価値、あるいは地位が変わりつつあるように思える。これまで、高価であるにも関わらずパソコンは耐久消費財とは言えなかった。すぐに消耗するわけではないのだが、陳腐化が異常に速いため、私の経験では、おおむね3年で腐ってしまうのである。しかしここに来てなかなか陳腐化しなくなってきたように思える。なんのことはない、パソコンの性能が要求を上回り過ぎるようになったのだ。

たしかに、1990年代からこっち、パソコンにさせたいことも増え続け、それに伴って処理能力を向上させる必要もあった。しかし、ここに来てその必要性が実感できなくなってきたのである。ここ数年、パソコンに付加されてきた能力といえば、動画処理である。逆に言うと、テキスト・リッチテキストはもちろん、静止画や音声の処理には十分な能力を備えてきたので、動画ぐらいしか残された課題がなかったということだ。

ところで、どれほど多くの人が動画処理を求めているのだろうか。動画の再生の需要は確かにあるだろう。しかし、動画を編集してビデオクリップを作成する、という需要があるのだろうか。実のところ、私にはない。そりゃ将来子供ができてめでたく親バカになったらそれを求めるのかもしれないが、今はない。

動画編集は意外と手間がかかるものである。年賀状の作成あたりとは違って、極めて趣味性の高い技術だ。「パソコンで編集できるならちょっとビデオクリップ作ってみよう」とビデオ編集を手がけた人でも、そこに趣味としての魅力を見出すことができなければ「おもしろい経験をした」で終わってしまうのではないかと思う。動画編集の一般化・日常化はありえないのではないか。

考えてみれば、パソコンで絵を描くこともできる。しかし (業務を除く) コンピュータグラフィック作成はやはり趣味なのであって、決して一般化・日常化しているわけではない。動画編集も同じことなのだ。ということは、パソコンの情報処理能力の「捌け口」である動画処理能力は万人の求めるところではないということだ。今日のパソコンの能力は、日常の、一般的な用途に対しては過剰なのだ。

そうなると、パソコンという製品の作り方も変わってくることになる。CPU のこれ以上のクロックアップもマルチコア化もいらない。主記憶も 1GB もあれば充分であるべきだ。ハードディスクの IO 速度と信頼性については改善の余地があるものの、100GB 以上の容量を何に使う? 求められるものは性能アップではない。低価格化だ。

インテルも AMD もパソコンメーカーもそのあたりは読んでいて、低価格化時代への対応を始めている。「ネットトップ」「ネットブック」なんて名前をつけて、「パソコン」と差別化しようという姑息な企みもしているようだ (したがって、この呼称に同調しない。低価格になってもパソコンはパソコンだ)。それにしても、Microsoft もうっかり Windows Vista なんかを開発してしまってしまった、と思っているのではないだろうか。

先端技術製品としてのパソコンは黄昏れ、いよいよ本当の意味でのパソコンの日用品化が始まる。(ASUS EeePC 900 が速く国内はつばいされないかなあ。)


作成: 2008-05-01 13:20:38.0更新: 2008-05-01 13:20:38.0
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